多田おばあさんが守る海女の墓

八栗ケーブル山上駅を右手に見ながら、急な坂道を牟礼の街へと下っていく。

3キロ程歩くと道は国道11号に突き当たり、その国道を挟むようにして、仲良く琴電志度線八栗新道駅とJR高徳線讃岐牟礼駅が並んでいる。

前を行くNさんはというと、どちらの駅へも入る素振りを見せずに交差点を左折した。

「志度寺まで歩くんですね」

「この先の道の駅で少し休んでこ思おてナ。ここから志度寺までなら歩いても知れとる。きょうは志度寺までやさかい、ボチボチ行きまヒョか」

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旧志度街道沿いの石鎚山奉献灯籠
自然石を使ったこのユニークな灯籠は、志度町間川、雲附山に祀られている石鎚神社の奉献と、志度の海辺から玉浦川の河口にかけて繋留する漁船のしるべの為、「もとや醤油」初代当主「小倉嘉平」が、石鎚神社の信仰に燃える実弟、高松藩士「田山助蔵」の勧めによって、弘化3年(1846年)に建立したものである。
小倉嘉平を中心に始まった石鎚講は、間川を中心に今も続いている。
    さぬき市 さぬき市観光協会

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善根宿うたんぐらの奥さんから教えて頂いた、四国霊場見所 その2。

心ない人に史跡を荒らされ、今では無粋な丸太で囲まれ、立ちいることが出来なくなっている志度寺の海女の墓。

中央の五輪塔が、一人の海女の悲しい伝説に由来する海女の墓。
能 ・ 海人/海士(あま)
あらすじ
藤原不比等[淡海公]の子、房前(ふさざき)の大臣は、亡母を追善しようと、讃岐の国[香川県]志度(しど)の浦を訪れます。

志度の浦で大臣一行は、ひとりの女の海人に出会いました。一行としばし問答した後、海人は従者から海に入って海松布(みるめ)を刈るよう頼まれ、そこから思い出したように、かつてこの浦であった出来事を語り始めます。淡海公の妹君が唐帝の后になったことから贈られた面向不背(めんこうふはい)の玉が龍宮に奪われ、それを取り返すために淡海公が身分を隠してこの浦に住んだこと、淡海公と結ばれた海人が一人の男子をもうけたこと、そして子を淡海公の世継ぎにするため、自らの命を投げ打って玉を取り返したこと……。語りつつ、玉取りの様子を真似て見せた海人は、ついに自分こそが房前の大臣の母であると名乗り、涙のうちに房前の大臣に手紙を渡し、海中に姿を消しました。

房前の大臣は手紙を開き、冥界で助けを求める母の願いを知り、志度寺にて十三回忌の追善供養を執り行います。法華経を読誦しているうちに龍女(りゅうにょ)となった母が現れ、さわやかに舞い、仏縁を得た喜びを表します。   the能.comより
後日譚として伝えられるところによると、海士によって龍宮より取り戻された珠を、不比等は折から造像中の興福寺中金堂本尊、釈迦如来像の眉間に納め、後に改めて仏頭の中に奉籠したのだが、康平三年(1060)に中金堂は炎上し、このとき本尊とともに面向不背の珠は焼失した―はずだった。

ところが昭和51年、失われたはずの宝珠が発見されたのである。

それも何故か、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島、宝巌寺からである。

果たしてこれは本物やいかに?
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今年86歳になる多田さんは、ほぼ毎日朝早くから海女の墓にやってきて掃除を行い、不心得者から墓を守っているという。

おばあさんは「よくお参りに来てくれました。有難うございます」と言って、一枚のコピー用紙を差し出した。

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「これが面向不背(めんこうふはい)の珠です。どうぞお持ちなさい」

「有難うございます。いつまでもお元気で、海女の墓をお守りください。さようなら」



「ほな、琴電で高松まで行こ」

多田のおばあさんと別れ志度寺を後にすると、Nさんはそう言って志度駅目指して歩き始めた。

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5月5日、連休そろそろ終わりともなると、高松市内のホテルも空いているようで、讃岐最後の夜を過ごすことになる、瓦町駅近くのビジネスHアサノへと向かった。

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